ロジカル・シンキングが流行り、デザイン・シンキングが流行り、次に来るかもしれない(来てるかもしれない)のが、アート・シンキング。
といっても、個人的にはこういったバズ・ワードには興味がなく(そもそもついていけない)。でもそれって、きっと著者である若宮さんもおなじだろうと思ってます。わかってて書いてるんですよね、きっと。
美学を専攻し、建築士からはじまり大企業を経てベンチャー企業を興すまで、一体どんな世界を通り抜けてきたんだろう。お目にかかってお話させていただいて真っ先に感じたのは、幅が広すぎて得体がしれない感、ノー・ボーダー感。『笑ウせえるすまん』のエンディングで、人生も人格も破綻した中年男性を慈しんで抱く菩薩様のような「なんでも許します、もう大丈夫なんです」感。余計にわからないたとえで恐縮です。
アートという考え方や視座を本にすることなんて叶うものでもないし、そもそも矛盾してるし、それでも歯を食いしばって本にしたところで、いろんな誤解もされるだろうけど…いいんです。読む人をしあわせにさえなってくれれば、それでいい。そんな世界への貢献のしかたを無垢に試みている…そんな印象を、この本から受けました。
有り体に言えば、アートで食べている人には鼻持ちならない人が多いと個人的に感じている僕なんです。だって話がわからない人が多いんですもの。うちのばあちゃんなら鼻先の蝿を払うように手を振って顔をしかめるよ、という人が多くて、辟易とすることもあるのです。何せ僕の人生のテーマは「どうやったら相手にわかってもらえるか」、話の良さ・正しさよりも「わかるかどうか」が大切。実はディープで衒学的なものいいも嫌いじゃない僕ですが、そんな話し方をしてもいいのは気心知れた人と飲む時ぐらいにしとくべき。そんな倫理感で生きています。
しかし、しかしながら。若宮さんは、(きっとご本人が圧倒的に多様で幅広なご経験をされ続けたことで)アートについて僕みたいな偏屈マンにも心地よく聞かせられるまでに至っていて、ほえー、すげー、本当にいるのかこんな人…と顎をスリスリ感心してしまったのでした。
会社を経営して定期的に利益を出しながら、同時に混迷深めるアートを志向するって、そもそも矛盾してます。やりたいことがいくつもあって、それぞれで成果を出されて、それはそれで本当にすごいことなんだけど、客観的に見れば「何をやりたいの?」状態。素直に生きれば生きるほどほど矛盾するというタフな状況でも、あっけらかんと笑っていられる強さを身につけられているからこそ、こんな本も書けるものなのだろうと思い、妙に襟を正しました。矛盾で人生にひびが入ったところから、なんかおもしろエキス的なものが滲み出てくるんですよね、きっと。僕もそんなエキスを出したいなぁ。
拙著『「ついやってしまう」体験のつくりかた』では「体験デザイン」というキーワードを掲げましたが、若宮さんの『ハウ・トゥ アートシンキング』におけるアートという概念は、拙著における「体験デザイン」というキーワードもまるまるすっぽり飲み込む大きさ。大きいからこそ、わからない。わからないからこそ、アートなんですね。
ただし、個人的には拙著『つい〜』から割愛してしまった「創造のデザイン」「社会のデザイン」をまとめられたら、もっと若宮さんによろこんでもらえそうだなぁと思ってます。デザインとアートをもっとノー・ボーダーにして、ただの「おもしろ」に突き抜けていきたい。でも、ちゃんとビジネスという現実にもつながったままでいて、家族を養いたいし、人生一度はハワイにも行ってみたい。
なんかロックみたいな話になってきた。あぁ、でも若宮さんってロックかも。
アートをビジネスに組み込むための具体的な思考法を楽しませながら読ませてしまう技量もあれば、結局わからないから考えてしまうという歯ぎしり感もあるし、堅固だと思いこんでいた人生の土台を変な方法で崩すなよという苛立ちすらある。数ページ読めばその先に待つ混沌を明確に予感できてしまうにも関わらず、読み手自らがよろこんで「入った者が困る壺」に身体をすべりこませてしまう。
いやー、困った困った、うれしいな。僕って本当に何にもわかってないけど、わからないって楽しいな。スーツの大人を丸裸のこどもにしてしまう、そんな本だと思います(いまさら丸裸になんてなりたくないと思われる方にこそ、この本は必要かもしれません)。