KANの売り込みを目論む文章

KANの売り込みを目論む文章

前々から気になっていたんだ、KANという男のことを。だからTSUTAYAの激安中古CDのワゴンにKANのアルバム『ゆっくり風呂につかりたい』『弱い男の固い意志』『MAN』という3枚のアルバムが謙虚に並べられている様を見て、正直なところ心の高ぶりを禁じ得なかった。

なんなんだ、このKANという男は。『愛は勝つ』で売れた一発屋だという認識は僕だってしっかり持っている。しかしながらKANはぬれ落ち葉のように音楽から離れない。苛立ちの感情さえ脳裏をよぎる。

しかし、既に僕の心には、KANについての何かが小骨的にひっかかってしまっていたのだ。

そして今、3枚のアルバムは僕の机の上にあって、ヘッドホンからはアルバム『MAN』の楽曲が流れている。合計200円の散財である。1枚100円とあったので会計をスムーズにと315円出そうとしたら、「3枚買うと200円に割り引きになります」とTSUTAYAの実習中の店員に指摘された。そんな事、ワゴンの張り紙には書いてなかった。ちょっとバツが悪くて、KANに付き合うとロクな事がないなあ、と思った。

歌だって特に上手い訳じゃない。むしろ下手だ…と思う(僕はプロではないからわからないけれど)。例えはかなり古いけれど、宇多田ヒカルのビブラートの妙な早さと、倉木舞衣の不安定さという2つの特徴を見事に兼ね備えた声は、まるで流行を裏側から予言していたようだ。曲だってワンパターンだ。大江千里とか槇原敬之とか、むかし流行った歌手とメロディもキャラもかぶってる。その上致命的なのは、同じアルバムの中に同じ曲が何度か収録されているのではないかとさえ錯覚させるほどの楽曲群である。

煎じ詰めて言えば・・・ダメな男なのである。僕だってダメ男だから、連帯した上で悲しく思う。悲しいなあ。もしかして「KAN」って「KANASHIINAA」の頭文字ではないだろうかとさえ思えてくる。

KANは、こんな歌詞を、アルバム『MAN』の表題曲『MAN』で歌っている。

いつの日か詐りなく言い切れる
勇気が持てた時 I’ll be a man

男はこうしてばかばかしいくらいに
いつも責任をとりたがる小さな生物

きっとKANは、本気で彼の想いを伝えようとしながらこの歌を歌うのだろうけれど、名前がKANなだけに「その『MAN』っていう曲名、ダジャレかよ!」とバカにされる。実を言うと僕もバカにした。

そんなこんなで、今日もKANはヒットチャートのずーっと下の方を爆進している。

今頃KANは「うちの奥さん、俺のCDが売れなくて心配してるだろうなあ。申し訳ないなあ、がんばらないとなあ、メシ代切りつめないとなあ」なんて魚民あたりで一人思い耽っているに違いない。コーンバターだって、レンゲで食べるとあっという間に無くなってしまうので、きっと箸だけを使って食べているのだろうと予想する。

・・・しかし、先ほど挙げた歌詞の中にある言葉だが、僕は『責任をとりがたる』男は割と好きである。

流行りのCDが派手にディスプレイされたTSUTAYA、中古CDワゴンにひっそりと置いてあるKANのアルバムを見つけた時のあの妙な気持ちは、まるで僕の一部を見つけた時のようで、僕はその瞬間を愛さずにはいられないのである。

最後にアルバム『ゆっくり風呂につかりたい』から『永遠』の一節を引用する。

ぼくの表現が大げさすぎても
君は気にせずに歩いてて下さい
たとえば ぼくの存在が君の重荷になるなら
その荷物もぼくがもちます

ああ 愛しき君よ もう泣かないで
いつも隣に永遠にぼくはいるから

とまれ隣に永遠にぼくはいるから

『愛は勝つ』が売れた理由のひとつに、これだけ責任を取りたがるような自己批判的で怯えた男が歌う愛の賛歌を聴いた人々が「そうか!?」と心の中でツッコんだ事が挙げられるのではないかと思う。少なくとも僕は「お前が言える事かよ、それ!?」とツッコんだと同時に、その歌詞に含まれる信じる事や人を愛する事の万能さについて、少し考え込んでみたりもしたことを記憶している。

KANがダメ男だからこそ、『信じることさ 必ず最後に愛は勝つ』の一言が、人々の心を打ったのだ。

さて、そろそろ白状します。僕はKANが大好きです。最新アルバム『5✕9=63』、すごく良かったです。ありがとうございます、KANさん。初回限定付録DVDも良かったです、制作過程のあんなところまで見せちゃって、大丈夫なのですか? ところで、この記事にうってつけの写真として、ラムネの瓶を選んでみました。KANじゃなくて瓶です。ダジャレ好きなKANさんのお眼鏡に適うべく、厳選したつもりです。ほな、サイババ。おしり。じゃなくて、おわり。