童謡『赤とんぼ』

童謡「赤とんぼ」の歌詞です。


夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは まぼろしか

十五でねえやは 嫁に行き
お里の便りも 絶え果てた

夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先

上記の歌詞の中で、例えば「負われて見たのは」を「追われて見たのは」と勘違いしている人がいたりしますよね。赤とんぼを追っていたり、誰かに追われているのではなく、幼い頃の主人公が誰かにおんぶされ、背負われながら見た、というのが、正しい解釈のようです。

では、誰に背負われていたのか? というと、主流の解釈では3番に出てくる「ねえや」であるようです。「ねえや」とは漢字で書くと「姉や」ではなく「姐や」。子供の世話や家事を手伝うために奉公のように住み込みで働いている女性のことを指します。この歌が発表されたのは大正10年(1921年)、作詞家・三木露風が32歳の時の作品ですが、露風が子供の頃つまり明治時代には中流家庭でも「ねえや」は一般的だったそうです。

少年露風は、ねえやに背負われて赤とんぼを眺めたり、山の畑で桑の実を摘んだりしながら、豊かな幼年期を過ごしたようです。しかし、少年露風をやさしく育てたねえやは嫁に行ってしまい、「お里の頼りも 絶え果てた」と3番では歌われます。ここで言う「お里」とは、ねえやの実家の事という解釈が一般的のようですね。ねえやが実家を離れて働く中で、実家からの便り(手紙やみやげもの)が届くこともあったのでしょう。しかし、ねえやが嫁に行ってしまった後は、とうとうねえやの実家からの便りも、当然ねえやからの連絡も無くなってしまった・・・露風は、ねえやを思い出しながら、今はもう風の便りも聞こえなくなってしまった今の切なさを歌にしたようです。

そして4番。少年露風が背負われて見た夕暮れの光景と同じようで、少しだけ変わっているところがあります。少年が見たのは夕暮れの真っ赤な空を飛ぶ赤とんぼでしたが、ここでは「竿の先に止まっている」わけですね。1〜3番と4番の間で、とりたてて場面が転換した様子はありませんが・・・僕個人の解釈として、こんな理解をしています。1〜3番は思い出の中の景色であるのに対して、4番は現在の光景だ、と。4番の情景を眺めながら、1〜3番の思い出を辿っている露風、そんな曲なのではないかなぁ? と思うんです。

1番から3番までの歌詞が少年時代の露風の思い出で、4番の歌詞は年を取った現在の露風の眼前に広がる景色ではないかと思うんです。僕の勝手なイメージでは、背広に帽子にヒゲを生やした露風が、昔を思い出しながら目の前の赤とんぼを見るや見ずやで眺めている…そんな光景が目に浮かびます。ねえやに守られながら、純粋に日々を楽しんで暮らしていた少年露風。その目の前の赤とんぼはまるで少年の想いのように、未来のほうへと飛んでいくように見えたことでしょう。一方、ねえやも何処かへ言ってしまい、自由にはなったけれど年を取り、少年の頃の思い出に浸る現在の露風の前では、赤とんぼは静かに羽を休めている。静かに思索に耽るかのように、ただじっと夕闇に身を紛らわせている。

ねえやのぬくもりの中で何の心配もなく楽しく日々を過ごす少年露風と、空を飛ぶ赤とんぼ。そして、失われた時間について思いを馳せる露風と、動かない赤とんぼ。このふたつの場面が対比になると同時に、ふたつの場面で共通する「夕焼け小焼け」。真っ赤に焼ける夕暮れの空は、少年露風も成長した露風も等しく包み込みます。

人は移ろい、時は失われながら思い出として心に降り積もっていく。しかし、いつの世も変わらない夕暮れの美しさよ・・・そんな人生の切なさを、露風はたったこれだけの歌詞の中で見事に再現しています。海外の皆さんの反応を見ていただければ分かるとおり、その思いは美しい旋律と共に確かに人の心を打っているようです。

夕焼け小焼けの「コヤケ」

さて。歌詞冒頭の「夕焼け小焼け」の「小焼け」って、何でしょうね? 答えは「単純に語調を整えただけの言葉」というのが一般的な解釈です。例えば「仲良しこよし」の「こよし」と同じで、特に意味は無いんですね。でも、なんとなく声に出した時の調子が良くて、七五調に上手くハマッて、「仲良し」や「夕焼け」に込めたい意味がより伝わるようにと、「こよし」「こやけ」という繰り返しの言葉が付けられている、というわけですね。

「夕焼け」単体ではただの情景にしか感じられないかもしれませんが、「夕焼け小焼け」と言うことによって、その光景の美しさに加え、帰る家のあたたかさや一日の終わる寂しさのような心的情景が言葉に込められています。そしてその思いが強ければ強いほど、少年時代を思い出す露風の切なさがよりいっそう際だつのでしょう。

皆さんも僕も、露風と同じように子供の頃の思い出に浸ることがあるでしょう。そんな時、思い出す子供の頃の思い出は、ちょうど夕日のようにかすかにじわっと温かくて、そして直視するには眩しすぎたりします。誰もが同じように思い出を辿りながら、励みを得ていることでしょう。そんな風に思い耽ることを「黄昏れる」なんて言いますけど、なるほど良くできた日本語ですね。

「赤とんぼ」の作詞家である三木露風しかり、昔の日本人の言葉はかくも美しく響き、今に生きる僕たちの心を温めてくれているように僕は感じています。